加山又造
 加山又造は昭和2年(1927)に京都市上京区で生まれました。祖父は京都四條派、円山派に学んだ絵師で名を田辺玉田といいました。父親は西陣の衣装図案師で若くして工房を弟子を抱えて工房を営んでおりました。工房では父や弟子達の仕事を見て過ごし、また仕事の為に集められた様々な図案集や画集を飽かず眺め、いつしかそれらを真似て絵を描くようになりました。

 13歳で京都市立美術工芸学校に入学し、17歳で東京美術学校(東京藝術大学の前身)に進学しました。戦後すぐ父親が亡くなりましたが、敢えて京都に戻らずにアルバイトをして遺された母と妹に送金しながらも東京で学業を続け、美術学校を卒業した後は学校でも指導を受けていた山本丘人先生に師事して創造美術に作品を応募し、一度目は落選、研究会に参加の上で二度目にして入選し、その後は順調に画業を歩み始めるようになりました。28歳(1955)には初めて個展を開催し、31歳(1958)には第二回グッゲンハイム賞国際美術展に出品し、以降海外で日本画の展覧会が開催される折に招待作家として出品を重ねることにもなりました。

 国内では、横山操先生、石本正先生と共に轟会を結成し、日本画の革新を目指して互いに意欲的な活動を展開しました。多摩美術大学、東京藝術大学など国内の大学で後進の指導にあたり、学生と過ごす中で新しい発見も多くしたようです。中国では北京の中央美術学院で数回に渡り講義をし、また中国画の大家との出会いは水墨へのより深い情熱を呼び起こしました。中国北京の中央美術館、またイギリスの大英博物館において大規模な個展も開催しました。日本国内の様々な芸術家とのコラボレーション、またBMW525iのアートカープロジェクトに参加した際は平安から続く日本の伝統技法「截金」をBMWの車体全体に施したことで話題を呼びました。身延山久遠寺本堂及び天龍寺法堂には巨大な天井画を残しています。

 2003年に文化勲章を受章いたしましたが、その頃には体調を崩しており、翌年2004年の4月、満開の桜の舞い散る夜にこの世を去りました。享年76歳でした。(文責 加山由起)

加山又造略歴

1927 京都市に生まれる。父は西陣の染色図案家、祖父は四條・丸山派の絵師であった。
1940 京都市立美術工芸学校絵画科に入学する。
1944 東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に入学する。
1945 学徒勤労令による勤労奉仕で山口県岩国に赴き、そこで終戦を迎える。
1949 東京美術学校日本画科を卒業、山本丘人に師事する。
1950 第2回春季創造展に《動物園》《自画像》が初入選し、研究会賞を受賞する。
1951 創造美術と新制作派協会が合同して発足した「新制作協会」の協友に推挙される。
1954 新制作協会の7人の画家達とグループ「ひこばゆ」を結成する。
1955 養清堂画廊で初個展を開催。銅版画を試作する。
1957 東京画廊で個展。このとき横山操と出会う。
1958 第2回グッゲンハイム賞国際美術展に出品する。絵画の古典技法(截金など)の習得に努める。
1959 石本正、加山又造、横山操を会員とする「轟会」が発足する。
1960 「日本画の新世代」展(東京国立近代美術館)に出品する。リトグラフを初制作する。
1961 ジャネット・ネスラー画廊(ニューヨーク)で個展を開催する。
1964 多摩美術大学非常勤講師となる。
1965 横山操を説得して多摩美術大学日本画科教授に迎え、共に実技の指導に当たる。
1966 多摩美術大学日本画科教授となる。
1973 横山操死去。多摩美術大学教授を辞任する。
1974 創画会に参加する。
1977 多摩美術大学日本画家教授に再び就任する。
1984 身延山久遠寺本堂天井画を完成させる。
1988 多摩美術大学教授を辞任し特別講師となると同時に東京藝術大学美術学部教授となる。
1990 BMW社から依頼されたアート・カーが展示される。(Youtubeより制作風景オフィシャル映像
1992 新東京国際空港第二旅客ターミナル出発ロビーの陶板壁画の原画を制作する。(大塚オーミ施工実績
1995 東京藝術大学美術学部日本画科教授を定年退官し名誉教授となる。
1996 大英博物館日本ギャラリーで「加山又造展」が開催される。
1997 京都 天竜寺法堂の《雲龍図》が完成する。文化功労者として顕彰される。
2003 文化勲章を受章する。
2004 4月6日逝去。享年76歳。

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